那覇空港から車でわずか5分の所に、「不屈館」という私設の記念館があります。これは瀬長亀次郎さんという政治家の娘さんが設立した記念館で、米国統治下の沖縄で、理不尽な統制に断固戦った政治家、瀬長亀次郎さんの遺品や功績が展示され、沖縄の戦後史を知る上で貴重な記念館です。
ポイント1:那覇市若狭にある私設の記念館『不屈館』の概要は?
『不屈館』は那覇市若狭、ちょうど那覇クルーズターミナルのすぐ近くにある、私設の記念館です。
大通り沿いではなく、住宅街の一角にひっそりとあるので、ちょっと場所がわかりにくいかも知れません。
しかし、わざわざ遠くから、この記念館を目指して訪れる人も多いのです。
2013年3月、この記念館の主である元政治家、瀬長亀次郎氏の次女内村千尋さんが開設した私設の記念館で、亀次郎氏の遺品をはじめ、新聞切り抜き、映像など1万数千点が展示されています。
コロナ禍で経営が危なくなり、クラウドファンディングにより復活!それだけ支持する人も多かったということです。
私設とは言え、記念館になるほどの瀬長亀次郎という人物はどんな人だったのか?下記にご紹介致します。
開館時間:午前10:00-午後5:00(入館は午後4:30まで)
休館日:毎週火曜日・年末年始(12月28日-1月3日)
入館料:500円
ポイント2:『不屈館』瀬長亀次郎さんの生い立ち概要
『不屈館』の主人公である瀬長亀次郎さんは、1907年、現在の沖縄県豊見城市に生まれました。
地元の中学を経て東京の順天中学、現在の鹿児島大学に進みましたが、社会主義運動に関わったことで放校処分になってしまいます。
その後、2年間の兵役を経て、1932年、丹那トンネルの労働争議を指導したことで治安維持法違反で横浜刑務所に投獄され、3年間服役します。
その後、蒔絵工となりましたが、戦争に招集され、中国に出征。
帰国してからは、名護町助役、沖縄朝日新聞、毎日新聞沖縄支社の記者を経て、1946年、うるま新報(現・琉球新報)社長に就任。
在任中に「沖縄人民党」結成に参加したとして、軍の圧力により社長を辞任することに。
それでも亀次郎さんはへこたれません。
雑貨店を経営する傍ら、沖縄人民党の書記長となり、1950年、沖縄群島知事選に出馬するも、準備不足から落選。
1952年、第1回立法院議員選挙に出馬し、トップ当選。しかし選挙後、琉球政府創立式典で宣誓を拒否したことで、米軍に睨まれることとなってしまったのです。
ポイント3:『不屈館』瀬長亀次郎さん、不屈の歴史
瀬長亀次郎さんの人生は、ここまでも十分不屈の精神を発揮していると思うのですが、まだまだ不屈の精神は続きます。
1954年、沖縄から退去命令を受けた人民党員をかくまった、いわゆる出入国管理法違反として、またもや瀬長亀次郎さんは逮捕されてしまいます。
しかもたった一人の証言で弁護士なしの裁判にかけられ、懲役2年の刑で服役。
1956年4月、出獄後には同年12月の那覇市長選に出馬します。対抗する候補から妨害を受けるも、当選。
しかし占領軍が出資していた琉球銀行の那覇市への融資や補助金を打ち切られるという仕打ちに遭います。
さらに預金凍結の措置をとられ、市政の運営もままらならない事態に陥りますが、市民が自主的に最高86%もの納税率で市長を助け、危機を脱します。
理不尽な増税で国民に文句を言われている現在の政治家とは大きな違いですね。これが本来の政治家の姿だと思います。
そこで黙っていられないのが米軍です。占領軍と沖縄自民党はなんと7回も不信任決議を提出。しかし不発に終わります。
1957年、占領軍は布令を改定し1954年に亀次郎さんが投獄されたことを理由に、被選挙権を剥奪しました。1967年にようやく被選挙権剥奪が回復すると、1970年、沖縄初の国政選挙で参議院議員に当選します。
日本共産党に所属し、副委員長などを歴任。1990年には政界を引退され、2001年10月5日、肺炎で94才の生涯を閉じます。
瀬長亀次郎さんの功績に対しては、ジュリオ=キュリー賞、那覇市政功労賞、県自治功労賞、沖縄タイムス賞(自治賞)を受賞。それだけでなく、那覇名誉市民、豊見城名誉村民を受けています。
沖縄にこのような立派な政治家がおられたことを、一人でも多くの人に知っていただきたいです。そして「新しい戦前」と言われる令和の今、一見関係ないように思える市民生活と政治の関係について、もう一度考えてみるいい機会になるのではないでしょうか?
なお、瀬長亀次郎さんをモチーフにした映画が2本、制作されています。その音楽を担当したのは、2本とも今の政治問題に心を悩まされていた故・坂本龍一さんだったとのことです。